2003年02月09日

生きるということ

Posted at 00:54 | まいにち | 0コメント

まだ仕事で慌しい日が続く中、知人がこの世を去りました。

2年前の秋に仕事先である工事現場で事故にあった、との知らせで私たちが駆けつけた時、その人は人工呼吸器をつけてかたく瞼を閉じて横たわっていました。
もしかしたら、脳死状態かもしれない。お姉さんの言葉に友達の誰もが奇跡を祈り、そしてそれは半分だけ聞き届けられたのです。
やがて戻った自発呼吸で呼吸器がとれ、まぶたは開き、けれども、彼は自分で体を動かすことも、言葉を話すことも、それどころか、ありとあらゆる自分の意志を示す手段を失った状態で、横たわっているだけの存在になってしまったのでした。

彼が逝くまでの2年間、多いときは月に1度、間があいても季節に1度は彼のもとに足を運びました。
直接胃に栄養剤を流し込まれ、それでも日に日に痩せていく彼を見ながら、「生きる」ということの意味を常に問われ続けた2年間でした。

ベッドの白い天井だけをみつめながら、彼は2年3ヶ月もの長い長い間、一体何を考えていたのでしょう。
脳の損傷箇所も程度も結局よくわからないまま、ただ彼の意思を外に現すあらゆる回線が切れてしまった以上、あるいは何かを考えることができていたのかすら、今の私たちには知る術がありません。

彼は確かにそこに居て、息をしていたけれども、私たちの世界に完全に戻ってくることができないまま、逝きました。
彼の葬儀から納骨までの一部始終を見届けた友人は私たちだけではありませんでした。それこそが彼の生前をなにより雄弁に語っているような気がします。
死はまさに人生から、この世からおりることに他ならず、繋がっていたありとあらゆる全ての鎖を断ち切っていく。
残された人がその痛みに耐えるために、葬儀という儀式が必要のだということを、この年になってようやく理解したのでした。

彼は、今は自宅の近くに自分で建てたというお墓に静かに眠っています。
長い間、ほんとうにお疲れ様でした。

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